「伊勢神宮の歴史が知りたい」
「伊勢神宮ってどこにあるの?」
「神社本庁に属さない神社について興味がある」
伊勢神宮は、地元ではお伊勢さんや大神宮さんと称される日本国民の総氏神であり、天照坐皇大御神を祀る皇大神宮のある内宮と外宮で構成されている全ての神社の上に君臨していることから社格がありません。
天照坐皇大御神は、先に天孫降臨を果たした饒速日命の協力で東征を遂行した神武天皇から第10代崇神天皇の御世まで御所で祀られていましたが、第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命が笠縫邑に神籬を立てて御所外で初めて天照坐皇大御神を祀ったとされています。
笠縫邑は、平安時代の神道の教本である古語拾遺によれば当時磯城と呼ばれた地であり、現在では奈良県桜井市美和の橿原神社や奈良県磯城郡田原本町などの複数の比定地があるものの特定されていないのが現状です。
⇒神社本庁
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伊勢神宮の歴史を神社本庁さんが解説
日本書紀には、垂仁天皇25年に宇陀笹畑から近江地方の淡海(琵琶湖)から美濃と記載があり、第11代垂仁天皇の第4皇女倭姫命は延暦の皇大神宮儀式帳によれば大和国美和御諸の宮を出立して伊賀国や淡海国、美濃国を経て伊勢国に至ったとされています。
倭姫命は、桜井市三輪の大神神社摂社で一時的に天照坐皇大御神を祀ったものの同市笠の笠山坐神社から小夫の天神社へと遷座しており、その後古語拾遺に記載されている磯城郡田原本町の真言律宗秦楽寺の笠縫神社や多神社及び多神社摂社姫皇子命神社へ6回も遷座したとされています。
第7番目の元伊勢となる大神神社は、有史以前より美和乃御諸宮や大神大物主神社と称されていた大物主命を主祭神とする官幣大社です。
古事記によれば、第10代崇神天皇は天照坐皇大御神と共に大物主神を御所外で祀ったとされ、崇神天皇は大物主神の子孫にあたる大昆古命を探し出し三輪山に大物主神を祀ったと日本書紀にもあります。
その為、天照坐皇大御神も最初から大神神社に祀られたと考える人も多くいます。
第8の穴師坐兵主神社は、大和国当朝邑の当麻蹶速と出雲国の野見宿禰が蹴りもある捔力と呼ばれる古代相撲をとったとされる国技相撲の発祥の地です。
大物主神を主祭神とする高市郡の飛鳥坐神社に移される
その後、大物主神を主祭神とする高市郡の飛鳥坐神社に移されるものの、志貴御県坐神社やは大神神社摂社の狭井神社など桜井市内を転々としました。
祟神天皇39年壬戌には、丹波国吉佐宮に4年間奉斎され、崇神天皇43年丙寅には大和国の伊豆加志本宮で8年間奉斎中に豊宇介神が天降って天照坐皇大御神に御饗を奉ったとされています。
崇神天皇51年甲戌には、紀伊国の奈久佐浜宮に3年間奉斎されたが、崇神天皇58年辛巳に大和国の弥和乃御室嶺上宮に遷えるまでの52年間で皇女豊鍬入姫命は自身の寿命を悟ると共に姪にあたる倭姫命に天照坐皇大御神を奉戴する行幸を託したとされます。
倭姫命は、奈良県宇陀郡の阿貴の宮と佐々波多の宮を経て、伊賀国の穴穂の宮や阿閉柘植の宮へと大御神の鎮座地を移すものの伊勢へ向かわず、淡海国の坂田の宮や美濃国の伊久良賀の宮へ向かった後に伊勢国再度入りました。
その後、桑名の野代の宮から河曲鈴鹿の小山の宮や壱志の藤方片樋の宮を行幸し、飯野の高宮や多気の佐々牟江の宮を経て現在の伊勢市に入りました。
伊勢市内は、磯町にある玉岐波流の磯の宮と楠部町にあった宇治家田の田上宮み鎮座した後に伊須々の大宮地に辿り着きます。
伊勢神宮は垂仁天皇26年に内宮が唯一神明造で造営される
愛知県津島市には、天照坐皇大御神の弟神とされる建速須佐之男命を主祭神とする津島神社がありますが、津島神社には桃太郎の父親とされる第7代孝霊天皇45年に朝鮮から来た荒魂・建速須佐之男命が対馬に鎮座した後に津島神社に遷座したとする伝承が残されています。
その為、尾張国中嶋宮に遷座し、倭姫命は国寿きされたとする記述を合わせて一宮市の酒見神社や丸宮神明社などに一時的に鎮座したと考える学者もいました。
伊勢神宮は、垂仁天皇26年に内宮が唯一神明造で造営され、第21代雄略天皇22年に外宮が造営されましたが、第38代天智天皇の娘かつ第40代天武天皇の皇后だった第41代持統天皇の時代に式年遷宮が始まったとされています。
また、豊鍬入姫に始まる斎王及び斎宮は、五十鈴川の川上に造営された磯宮が最初とされ、三重県多気郡明和町竹川にある斎宮遺跡は天武天皇時代に斎宮が制度化された後の遺跡です。
斎王は、南北朝時代の祥子内親王まで60人以上存在したとされ、2歳の功子内親王から29歳の利子内親王まで幅広い年代の女性が占いで選ばれていました。
斎王は、天皇の即位に合わせて選ばれていた事から数年の短期から柔子内親王の様に34年間神に仕えた未婚の内親王もいました。
まとめ
現在では、斎王の代わりに86名の神職が奉仕していますが、明治時代までは宇治橋を渡った左の広い参道の両脇に神職が居住して祈祷や神札などの販売を自由に行なっていたとされいます。
参道には、明治時代当時の名残りとして左右に線が残されています。
伊勢神宮の内宮は、禊をする為の五十鈴川が参道の右を流れている事から手水舎が右にありますが、外宮は参道の左側にあります。
最終更新日 2025年8月6日